巾着田の曼殊沙華で有名な埼玉県日高市にあります勝音禅寺です。御朱印随時受付。本尊の千手観音坐像と両脇侍立像は日高市指定文化財です。

勝音寺【公式】歴史

勝音寺の歴史


勝音寺は室町時代となる応永三年八月(西暦1396年)に相模国鎌倉建長寺七三世仏印大光禅師、久菴祖可大和尚により開山とされ、開基は父親であり関東管領も務めた上杉家の上杉兵庫頭憲将です。
禅宗での開基とは、宗派を創立または寺院を創建した人(財力や権力のある人物が創建させた場合も含む)のこと。
同様に開山とは、最初に住職となった僧侶のことです。つまり勝音寺は上杉兵庫頭憲将が創建し、久菴祖可大和尚が初代の住職となったということになります。

下記、武蔵国郡村誌(昭和28年 埼玉県刊行)によれば、江戸時代の初め、三世桂林住職の代に火災に遭っており、その後、四世安州隣芸住職が再建しています。
天保八年(西暦1837年)11月17日には本堂を焼失し、庫裏を半分を仮の本堂としていたことが記されています。

この観音堂の創立年代は分かっておらず、本尊の千手観世音は檜材寄木造りの木像で相模国鎌倉之仏師定朝の作と伝わります。
千手観音の台座の墨書により、享保18年(西暦1733年)に修理され延文5年(西暦1360年)に再興されたこと、千手観音の像内に天正9年(西暦1581年)の銘札4枚が発見され鎌倉仏師の法眼長盛が手を加えたことまでは分かっております。
つまり、それ以前に製作された像であることになり、観音堂の創建時期を探る重要な資料となっています。この千手観世音坐像が現在のご本尊です。

元々の勝音寺の本尊は阿弥陀如来であったことは下記、武蔵国郡村誌でも明らかですが、現在は現存しておらず、度重なった火災によって焼失したと考えられています。

昭和になりますと、正徳元年鋳造の鐘が昭和18年に発令された金属類回収令により供出されてしまい失われてしまいます。
現在の鐘は昭和58年に皆様の浄財により新造されたもので毎年除夜の鐘では鐘の音を響かせております。
同じ頃に埼玉県に依頼し傷みの激しかった千手観音座像も修復が行われております。

平成に入りますと、現在の本堂が新築されます。それまでの本堂は南向きで、入り口も現在の本堂の南側でした。
下の写真が以前の本堂で御開帳の時の写真です。現在の本堂より規模が小さいのが写真からお分かりいただけると思います。



武蔵国郡村誌に残る勝音寺の歴史


武蔵国郡村誌(昭和28年 埼玉県刊行)

勝音寺 東西十八間南北三十六間面積六百四十九坪。村の東方にあり、臨済宗相模国鎌倉建長寺末派なり。

寺院明細帳

埼玉県管下武蔵国高麗郡栗坪村字馬場
相模国鎌倉建長寺末
臨済宗西家派 勝音寺

一 本尊 阿弥陀如来
一 由緒 応永三年八月相模国鎌倉建長寺七十三世之孫久菴祖可禅師創立、応永廿四年正月廿六日久菴祖可入寂を記せし一書あり。又古碑有之文字刻明ならざれども該墓碑ならんと思案す。三世桂林なるもの住職中火災に罹り衰微せしを、四世安州隣芸なるもの中興すと云う。安州隣芸寛永十三年十二月廿九日入寂の墓碑存在す。慶安二年八月廿四日境内観音江該堂領として幕府徳川家より五石を賜う。因て之を進退す。明治三年之を奉還す。明治六年より逓減禄を賜う。応永三年より明治十二年迄四百八十年。


一 本堂 間口八間、奥行六間の処天保八年十一月十七日焼失す。
一 庫裏 間口九間 奥行四間半 半を区別して本堂に仮用す。
一 長屋 間口五間 奥行二間半
一 境内 六百五十坪 百八十四番 官有地第四種
一 境内仏堂 壱宇

観音堂

本尊 千手観世音
由緒 創立年月は詳ならず。又本尊は相模国鎌倉之仏師定朝の作と申伝う。該堂に伝来せし書写の大盤経六百巻有之、康安二年四月廿二日より貞治三年八月まで書写せし者なり。右書写人は下野国佐野庄の住人比丘昌旭と名書明瞭たり。今尚現在せり。幕府より堂領賜いしことは、当寺由緒中詳記せるを以て之を略す。

堂 間口三間 奥行四間

一 境外所有地

宅地七畝廿四歩 当村百五十二番字御蔵 地価金弐拾壱円三拾壱銭六厘

畑七畝壱歩 当村百五十四番字御蔵 地価金拾壱円八拾四銭弐厘

畑壱反五畝廿四歩 当村百七十二番字御蔵 地価金三拾円弐拾壱銭八厘

畑壱反四畝拾歩 当村百七十三番字馬場 地価金拾四円弐拾六銭

畑壱反四畝廿歩 当村百七十四番字馬場 地価金拾壱円弐拾壱銭五厘

畑三反壱畝拾三歩 当村百七十五番字馬場 地価金三拾八円四拾八銭

宅地拾弐歩 当村百七十七番字馬場 地価金壱円九銭三厘

宅地五畝拾四歩 当村百七十八番字馬場 地価金拾四円九拾三銭九厘

畑弐畝歩 当村百七十九番字馬場 地価金弐円九拾銭七厘

田壱畝廿三歩 当村百八十番字馬場 地価金三円六拾七銭弐厘

畑壱反三歩 当村百八十一番字馬場 地価金拾弐円三拾六銭弐厘

畑六畝六歩 当村百八十四番ロ号字馬場 地価金六円拾六銭六厘

畑壱反二畝廿壱歩 当村百八十五番ロ号字馬場 地価金拾弐円六拾三銭八厘

畑壱反四畝拾三歩 当村百八十六番字馬場 地価金拾七円六拾七銭弐厘

田壱反弐畝廿六歩 当村百八十七番字馬場 地価金四拾八円七拾四銭六厘

田三畝廿九歩 当村百八十八番字馬場 地価金拾弐円三拾銭壱厘

畑壱反八畝廿八歩 当村三百十番字東原 地価金弐拾七円五拾弐銭五厘

畑壱反八畝拾三歩 当村三百十五番字東原 地価金弐拾弐円五拾六銭八厘

林七畝廿壱歩 当村三百十一番字東原 地価金拾五銭四厘

林壱反三畝廿弐歩 当村百七十六番字馬場 地価金壱円三拾銭七厘

竹林三反壱畝廿弐歩 当村百八十三番字馬場 地価金四円七拾六銭

一 檀徒 弐百九拾弐人 内戸主四十九人
一 管轄庁江 九里拾町




この資料により、戦後には300人ほどの檀家の皆さんがいらしたことが分かります。
また当時の寺地の規模も境外所有地から知ることができます。
また、「本尊 阿弥陀如来」とありますが、現在は度重なる火災で焼失し、観音堂の本尊であった千手観音座像を本尊としてお祀りしております。



▲このページの先頭に戻る